複数の言語の習得を同時進行で目指しています。
勉強しながら思うのは、国によって外来語の扱いが大きく違うこと。
例えば、中国は日本人の名前でも全て中国語の漢字の読み方に変えなければならないそうです。
別の例では、ノートなんて簡単な英単語は、日本語には難なく取りこまれてしまっているのに、ヨーロッパの言葉では独自の言い方、日本語でいうなら、
帳面
みたいな言い方を守っています。Tシャツなんて言い方も、日本語にはたやすく取りこまれているけど、国によっては独自の言い方を通しています。
独自の言葉を大切にしている = 外国
で、
外国の言葉に傾倒している = 日本語
と、ネガティブな言い方も出来るし、
柔軟に何でも取りこんでしまう、ブラックホールのような言語 = 日本語
とも言えます。
この日本語の柔軟さって、考えてみたら良いことなんじゃないか。
自分用に作り替えたり、簡単にしたり、方法は色々あるけど、いつの間にか取りこんでしまう。
異質なモノをすんなり取りこむ余裕があることもすごいけど、取りこんだら、国民も平気で受け入れて、かつ、使い始めてしまうのです。ただし、なんでもかんでも英語で言って、しかも独特の “得意げな” 節回しで外来語を使う人達には共感できませんが。
年をとると、
「若者の言葉が乱れている」
と嘆く人が増えます。
でも、考えようによっては、少し前に流行った KY なんてのも、なかなか面白い発想ではあります。
逆に、言葉が乱れている、というのであれば、
どの姿の日本語を守るべきだと考えているのか?
日本語は、かなりダイナミックに変化している言語だと思います。
その日本語を、僕らの生きているうちのある一時期の姿で、
「固定化」
して、
「守る」
ことが、日本語を守ることになるのかなと、ちょっと心が揺れ動き始めました。
外国語を取りこんだり、変化する柔軟さこそが日本語なのかもしれません。
ただ、面白いことに、どんなに荒れた言葉を使っても、ラブレターとか、日記とか、何か真摯な気持を表現するときって、
やけに堅い日本語を使って書きたくなる
そういう傾向があるように感じます。口語では、 「あんた」 とか 「てめ?」 言ってても、誰にも見られない日記等には
「あなた」
とか書いちゃったりして。(笑)
きゃ? (/o\)ハズカシ(*^^*)ポッ
結局、美しい心は美しい言葉で表現するしかないのでしょう。
だから、口では荒れてても、どこかで美しい日本語に憧れる気持をもっているのかもしれない。だとしたら、美しい日本語は “高級品” として残っていくのではないかと、最近思うようになりました。
もちろん、荒れた言葉は普段使いの “日用品” として。
言葉を日用品と、高級品に分けるってのも悪くない。
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