意識的に
謙虚でいよう
ということが、果たして謙虚なのかどうか悩ましいところです。
謙虚でいようと意識すること自体が、自意識過剰な “過剰分” を既に持っていると自認しているわけだから。いっそ、謙虚という言葉を、
自分を疑う
という、自分自身から確固たる自信を一瞬取りさってみる態度に置き換えてみたらどうかと思うのです。
例えば、僕の友だちで、こんなヤツがいます。
「オレはきれい好きだけど、嫁さんは掃除が嫌い」
で、普段から 「掃除しろ」 と言わなけりゃ掃除しないことに憤っているらしい。
ここで、自分を疑ってみると、
「オレってホントにきれい好き?」
って考えが出てきます。
つまり、
本当のきれい好きと、
キレイなところに居ることが好きなこと
この間には大きな違いがあるのです。
誰だって、苦もなくキレイな場所にいられるのなら、その方が良いに決まっています。
問題は、誰がその環境を提供するのか?
本当にきれい好きなら、自分で掃除すればいいんです。
人がキレイにしたところにいて、
「やっぱこれだよ」
というヤツは、きれい好きからはほど遠い。
単なるしみったれです。
掃除する側からしてみれば、それは大変な作業だし、自分では 「何日に一度」 って決めて掃除しているのかもしれない。たまたま不規則な休日で家にいる僕ら夫がうるさく言うからといって、
自分の習慣を変えるのはイヤ
十分に納得できる、というか理解し合うべき範囲だと思います。
ただ、一日中家にいてゴロゴロとテレビ見ている ぐうたら主婦 みたいな生活をしていて、掃除もしないのであれば、それは個人の責任感、使命感の問題なので分けて考える必要がありますけどね。
謙虚になるというのは、自分の間違いを認めるということでもあります。
絶対譲らない。
もし自分が間違っていると思っても、
絶対論破してやる! (昔の僕の姿です。醜い・・・)
と詭弁を使ってでも最後に相手を謝らせる人は、この先どんどん生きにくくなります。
間違いがあって、一人格だと思うのです。
自分が間違えて、素直に認めれば、そこに暖かい笑いが生まれることもあります。
自分の失敗で笑いを生んだ人は、他人が間違えて、それを冗談にしてわらっても暖かい雰囲気が保てます。
その逆だと、一緒にいるのがイヤになります。お互いね。
自ら 「僕は謙虚です」 という言葉には矛盾が内包されているとは思いますが、
誰もが、それほど優秀ではありません。
みんなそこそこバカで良いんじゃないの?
だったら、隙のない自分よりも、失敗を笑ってもらってホッとする生き方の方が、ずっと楽です。
失敗に反省が伴わないとか、向上心がないのは迷惑だけどね。
大晦日 on December 31st, 2007
夫婦がお互いのためにできること on February 22nd, 2008
福島県郡山に行ってきました on January 28th, 2010
厳しく言ってくれる人 on February 12th, 2008
自分の間違いを修正する on January 9th, 2008