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昔、ボロをもらって歩いていた夫婦

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30年前、近所でボロをもらって歩いていた夫婦が、僕の目の前で起こった本物の成功の物語なのです。

近所に、青いトタンの小さな家に住んで、朝から手ぬぐいでほっかむりして大八車を押し、家々からボロ布をもらって歩いていた夫婦がいました。

僕が住んでいた地域は、繊維の街で 「ガチャマン景気」 に湧いた地域です。ガチャマンとは、織物工場で

がちゃんと織れば一万円

という時代を映した言葉です。実際、本当のガチャマンは、川向こうの街でしたが、僕らのいたところでもその産業の恩恵にあやかっていた人達は少なくありませんでした。といっても、最も景気が良かったのは僕が生まれるずいぶん前の話です。

だから、ボロ布といっても使い古しではなく、新品の布の切れ端だったり、内職で出た残りだったりしたわけです。

近所の人達は、この夫婦を笑いものにして、子どものいる食卓で平気で “乞食 (すみません。当時の言葉なので)” と呼んでいました。小学校への道は、この夫婦の家とは逆方向でしたが、中学校は通学路沿いになりました。

最初は一階建てだった青いトタンのボロ屋は、2階建てのボロ屋にかわりはしたものの、二人は少し年取ってボロを集め続けていました。子供心にも 「落伍者決定!」 という感じでした。僕より年上のお姉さんがいましたが、目立たなかったので覚えがありません。

すると、あるときこのボロ屋が更地になりました。子ども達は、

「ついにダメになったか?」

と言い合っていました。
更地になってしまうと、土地の狭さが際だちました。
しかも、全くの三角形の土地。
今は、郵便局の駐車場として使われていて、軽自動車が尖ったところ、普通車があと3台停まったらマトモにドアが開かない広さです。

この夫婦が次に住んだのはこんな所です。
大人達が子ども達にこの夫婦がどうなったのか、説明しなかった理由がここに隠れています。
場所は、三角形の土地から東へ5キロのところ。

門の前には、普通なら傷が付くから布でもかけてありそうな、ぴかぴかに磨かれた黒い御影石が敷き詰められて、その上にセンチュリーが斜めに停まっています。

石段を上がると無垢材の屋根付きの門があって、その格子戸の奥の方にトラックでも出入りできそうな間口の広い “玄関” がありました。奥が見えないようにと、屋久杉かと思うような巨大な切り株を屏風にしたものがドドンと立っていました。

なぜ知っているかというと、高校の帰りに挨拶しているうち、お願いして中を見せてもらったからです。(笑)

僕は、おばさんしか会ったことはないですが、全く偉ぶらない人でした。
この方が、大八車を後ろから押していた人。

僕の家も他人を乞食と呼ぶほどの、”勝ち組企業の家庭” ですから(-_-)、少し大きな土地と家を30年のローンで買い、引っ越したため、再びこの夫婦のご近所になったのです。少し大きな土地といっても、ご夫婦の駐車場くらいです。(笑)

あのボロ布は何に使われていたのか?

タオルやトイレタリー製品として生まれ変わっていたそうです。
今とは作り方が違うとは思いますが、当時はそんな作り方をしていたこともあるようです。
水洗トイレが珍しかった時代です。
トイレの蓋にに可愛らしいカバーがつくようになった理由の一部は、この夫婦であることは間違いありません。(笑)

そのビジネスで大成功したのだそうです。

人に笑われながら10年もボロを集め続けて、ボロ集めをやめて5年くらいで会社は自分がいなくても回っていくようになったのだとか。一人娘は、アメリカ人と結婚してアメリカにいるから、会社は世襲ではなく社員から社長になった人が経営しているのです。

なぜ知っているか?
もちろん聞いたからです。
若気の至りです。

近所で笑っていた人はどうしたかというと、今度はこの “金持ち夫婦” にたかっています。
この夫婦と仲良くすると、

一見さんお断りのお店に行ける
センチュリーの後部座席で新幹線の駅まで送ってもらえる (おばさんは前に座る)
御園座で良い席が取れる

そんな “特典” に群がるのです。 (-_-)

当の本人は、なぜそういう人達と一緒にいるかというと、

バカにされていたことよりも、いただいた布が自分たちをここまでしてくれた

その感謝の気持ち、恩返しなのだとか。

当時は、すぐには意味が分かりませんでした。
だって、あの人達さんざんバカにしておいて、今はおばさんたちにたかってるのに??感謝??

おばさんの言葉を一瞬で理解できなかった自分が情けないです。

誰に布を分けてもらったということは分からないから、誰でも “今” 仲良くしてくれる人を大切にするのですと言っていました。

僕らが ボロ布 と呼んでいたのは、実は本人達にとっては ボロ でも何でもなかったわけです。
そこから既に間違っていたのです。

自分の周りの大人達が醜態をさらす姿と見比べて、この夫婦がなぜ本当の成功を手にしているのかよく分かりました。

皮肉なことに人間は、自分の目の前にいる人の姿を、その場で教訓として見ることができないのです。
だから、一昔前とか大昔の人達の中から、成功して死んだ人達から、美談をつまみ上げて、

「努力しなさい」
「見習いなさい」
「初心を貫きなさい」

と言うのです。一方で、目の前でボロ布を集めている人をみて、

「乞食」
「勉強しないと、あんな風になるわよ」

というわけです。それが、人生を捨てている姿か、初心を貫徹している姿かなんてことは興味はなく、

みっともない
自分はああはなりたくない

とか、その程度の感覚です。でも、成功すると

「あの人を見習え」

という。古今東西、大人はワケ分からんのです。(笑)
親になった僕らも、同じ事をやってしまうのです。
そして、子どもが自分の夢を信じて大八車を押そうモノなら、

「勘当だ!」

とかやってしまう。
そうかと思うと、目の前の

「人の心は金で買える」

とか言って金持ちになっている人に憧れてしまったり、化けたように成功した人だけを見て

「あんな風になりたい」

と考えます。

大八車を押さずして(例え話ね)成功はありえません。
今、苦労している人が将来どうなるか、今華々しくやっているひとが、将来どうなるかなんて分かりません。

ただ、言えるのは、子どもに教えなければならないのは、

他人の “今” なんて関係ない
自分が満足いく努力をしているかどうか

です。その思いが、この夫婦に大八車を押させたのでしょう。

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