新聞の読者欄に「賛論・異論」というコーナーがあります。
一般読者が投稿した記事に対し、意見を述べることができるわけですが、ここが非常に過激です。
「○月○日の?という投稿を読んで、とても“不愉快”になりました」
という書き出しです。
僕は、異論や反論があることは当然のことで、これを封殺することはあってはならないと思いますが、
反撃
という姿勢に対しては賛同できません。
日曜の記事では、ある高齢者が数カ国語の言語を独学で学んだ経験から、NOVA問題を批判していました。他人に教えてもらうという姿勢を批判していたのですが、この方の論調は確かに不快感を感じさせるものがあった記憶があります。
ですが、この反論もいただけない。言ってることは、
アンタみたいな爺さんは腐るほど時間があっていいでしょうよ。
でもね、若い人ほど時間がないのよっ!
という感じ。
自分と相容れない意見に対して、いちいち怒っていてはいけません。
怒りは、発言の意図するところを相手に伝える妨げになります。
例えば、最初の発言者の意図するところは、
・ 英会話学校に通わなくても努力すれば外国語は習得出来る
・ いずれにしても語学は努力せず習得することは出来ない
言ってみれば常識的なことを言っているだけなのですが、少し社会に対して普段から不満を持っている
「若者は他人依存が過ぎる」
といううっぷんを晴らしてしまったようなところがあり、若者のアンテナにはこの部分だけが引っかかるわけです。
反論の発言者の方にも問題があります。それは、潜在的に
「老人は暇をもてあましている」
という偏見を少し加えておきたい衝動を抑えられなくて、人を切るような文章になってしまったところです。
双方の発言には大切な要素が含まれています。
これが、穏やかな異論、反論として発言された場合、他の読者もなるほどと考える可能性が高いです。しかし、
対立や、反撃
という構造を二人が無意識のうちに作ってしまったことで、
「どちらのサイドをとるか?」
という戦争状態になってしまいます。
僕自身も潜在的に持っている偏見が、言葉の隅々にどうしても出てしまいます。
それはそれぞれの意見として尊重されるべき物ですが、相手に不快感を抱かせてしまうことで
共感
の域に達することが不可能になります。
全ての人が望むゴールとは、お互いの意見を尊重つつ自分の意見をいうことのはず。排除という姿勢からは何も生まれてきません。
反対意見を持つ人を尊重したいと思ってはいても、自分の意見に反撃という形で応じられたらやはり穏やかではいられない自分の未熟さを感じます。
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