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終戦記念日の新聞

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終戦記念日の今朝、新聞を長時間かけて読みました。

ページをめくるたび、読みたくなる記事が満載で朝からしっかり考えることができました。
(テレビ欄は相変わらずです)

僕のような学識者でないものが考えていることに対して、識者の視点からはどんな問題があるのか、どんな反対意見があるのか、別の考えを持つ方々の記事に、自分自身の信じるものを見直すきっかけがあります。

例えば、僕は日本に限らず、

各国の歴史は各国の国民が自国に誇りを持てる“方法”で

教えることが好ましいと信じています。日本とそれ以外の国が別々の歴史を教えるのが自然だと考えています。立場が違えば、意味が変わって当然。

歴史に間違いがあると指摘する人がいれば、それは研究者が証拠をあつめて調べ、議論して、その上でもし真実が見つかったのであれば、外国人の主張だろうが何だろうが初めて教育に組み込むべきだと考えています。隠すなんてのは事実を知られるより情けない。

仮に、

学校で教える歴史は全て真実でなければならない。

という前提で話すならば、その日は金輪際来ないわけだから、学校で歴史は教えてはいけないことになる。それではおかしい。

真実とは何か?

なんて、永久に答えの出ない哲学的な問題の答えを待っている間も、子供は確実に成長していくわけです。

納得出来ないのは、加害は証明されていなくても、それらを事実として教えたがる人達がいる一方で、加害の事実は無かったと主張する人の意見は程度の低いものだとばかりに批判されていることです。

加害があったという内外の“主張(証拠ではなく)”は優先され、加害事実無しの主張や提示された“証拠”に関しては「調べる意味などない」としている意味が、僕には全然分からないのです。

真実を追究する歴史学と、こども達に教える歴史は同じでなければならないのでしょうか?歴史なんて、どこまでいっても真実にはなり得ないわけです。
だったら外国に遠慮した歴史ではなく、子供達が自分自身に誇りを持てるよう配慮して、歴史を教えるべきだと僕は考える。

すると、当然そこに反論があるわけです。

今日の新聞記事中、山中恒さんという児童文学作家が寄せていた文章の中に、

日本の戦争が「自衛戦争だった」と主張する人達の心理や、若者達が愛国心やナショナリズムにひかれる理由として、

「戦後日本のよりどころだった経済が落ち込み、アイデンティティーの空虚感からくるやりきれなさを埋め合わせようという人達が多いからではないか」
「自分では生きる希望のようなものが確立できず、自分探しの旅にさまよう。威信のある国家に寄りかかれば、自分が明確になるという幻想を抱いているようだ」

と書かれていました。

なるほど、そうとも言えると思いました。

東南アジアやアフリカ、中東を訪ねて、現地の裸同然の子供達の写真を撮って「純粋な瞳に感動した」なんていう旅を自分探しと言ったりするワケの分からない現実逃避と、自分以外のもの(例えば国)に自分の存在証明をゆだねるという意志の弱い人も少なくないでしょう。

でもこの方の主張も、加害の事実があった前提からスタートしているのはなぜだろう。その前提があるのなら、根拠を共有しなければなりません。唯一無二の真実がなければ、どんな前提も仮説でしかないわけですから。

その記事とは別に、一般的に見る加害認識についての議論もどこかおかしい。

従軍慰安婦という言葉が正しいのかどうか知りませんが、その証拠の書類がないからそんな事実は無かったという日本の主張は確かにどうかと思う。戦後戦犯になるのを恐れて軍事関連資料を焼却したなどということも聞く中で、

公式文書がないから

というのはいかにも底の浅い反論です。
あったとしても、処分してしまったということだってあるわけだし、その事実も書類も本当になかったのかもしれない。今となっては全て仮説です。

外国から圧力を受けて「そうですね、もっともです」とばかり、検証もせず受け入れる国としての臆病な態度はどうなんだろうと思います。

日本の歴史認識に対して疑問を投げかけている国々が、自国の歴史の客観性をどう保っているのかも僕には分かりません。

ある有名な漫画には様々な仮説が出てきますが、『加害証拠写真』と言われるものに、とてもよく調べた上で疑問を投げかけているのに、それに対して納得できる反論を見たことがない。

世間の感情を乱すな!
あったんだから、あったんだ!

と感情むき出しで怒ってみせて回答を逃げる。
それでは納得できない。

加害の事実があったことを証明しろと言っているわけではなく、加害の証拠だと言われているものの信憑性を疑っているのだから、充分議論の余地はあるはず。

「自国民の心は無視して、他の国が満足いく方を優先しましょう」
「新しい加害の事実めいたものが出てきたら、証拠がなくてもやったものと認定しましょう」

あまりにも“自国の主張”が無さ過ぎる。
未来永劫、外国人、日本人全てが納得する歴史なんてあり得ない。

でも・・・

全人類が納得する歴史認識なんてなくったって平和への努力はできます。

平和を先送りにして、いつまでも“誰がわるい、あいつがわるい”をやってること自体が無意味だと言ったらいけないのでしょうか?

こんな記事もあります。

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