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子育てと愛国心の危うさ

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何か自分に言い聞かせたいとき、

「絶対○○するぞ!絶対○○するぞ!」

と鏡に向かって毎日言うと目標が実現する自己暗示という、自己実現手法があります。なんかどこかのカルト集団もやってました。

僕はこの手法自体は否定しないのですが、なんでもかんでもこれを使おうとすると問題があります。

例えば、「愛国心」とか。

暗示のように「愛国心」という言葉を露出させて、義務化して教え込んで

国を愛させる

という使役態的姿勢が、将来どんな結果をもたらすのか既に暗示しています。

それから、「子育て」です。

自分の子供を愛するのに、

「愛さなければ」

とばかり、自己暗示をかけて「愛そう、愛そう」と努力しなければならないとしたら、自己暗示の前にやるべきことがありそうです。

この頃、色々なことで

自発性を育てる手間

を惜しんで、即効性のあることを好む傾向が強くなりました。

なんでもかんでもハウトゥ本に頼る
誰かの成功例の物真似をする
手っ取り早く手法だけ教えてくれる講習会を受ける

「手法」や「ハウトゥ本」は、一見ゴールのように見えます。

でも、言葉で表せない大切なプロセスをすっとばして、その手法の部分だけを手に入れたとしても、手法はただそれだけでは無意味なものです。

ある人が多くの人に好かれている。
それを羨んでその人の真似をしたり、行動をコピーする。

それで、急に“好かれる人”になれるかというとそうではありません。

好かれる人は、外から見える要素だけで好かれているわけではなくって、その人の今までの生き方が、立ち居振る舞いに大きく影響を与えていることは間違いありません。

人は、経験による蓄積を賛美の対象にすることはあっても、真似や“フリ”のような中身の無いものを賛美することはありません。

「愛国心」という目に見えない要素であるべきはずのものに疑問をなげかける風潮が現れ、俎上にのせられ、議論の対象になり、

選択肢

にまで堕ちてしまったことは戦後の日本政治の失敗だと、僕は思っています。

同様に、子供を愛せない親の存在を認めて、「子供を愛すること」という本能で機能していた部分を、衆目にさらし、俎上にのせてしまったことで、これから子育てがどんな方向へ向かっていくのか怖い感じがします。

そもそも、

「わが子を愛するか愛さないか」という選択肢

は、存在しません。

どこか愛国心でやってしまった失敗例をなぞっているような嫌な雰囲気があります。

でも、

「考えちゃだめです!」

と言われちゃうと、考えてしまうのもまた人情ですけどね。(笑)

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