昨日のガソリンの話に続いて、コーヒーを飲みながらビスケットを食べていて思いました。
厚紙にコート紙、4色カラーに組立
ビスケットの箱はものすごい価格です。
清涼飲料は缶代がほとんどと言われるのと同様、ビスケットの価格の中には箱代もかなりを占めているはずです。
例えば小さな会社がこんな立派な箱を発注しようとすれば、最小ロットというものがあるため、
「こんなにさばけないよ」
という枚数を注文することになります。最小ロットでもかなり大きな数。
そうでなければ、一枚あたり、箱一つあたりの価格が跳ね上がる。
でも、この箱。
工場から家庭の間でビスケットを守るという大切な役目があるのだけど、ウチに来たら即ゴミ箱かそっぴくんのハサミの餌食。なんかとてももったいない気がする。
そう思って見回すと、身の回りではトンでもなくもったいないことをやらかしているということに気がつきます。
記事一つが読みたいだけでもらってきたフリーペーパー
頼んでもいないのにポストに入れてある宗教団体の案内冊子
めくるだけのJAFの会報
絶対見ないケーブルテレビの番組案内
裏が使えないコート紙に印刷した折り込みチラシ
確かに無駄なのだけど、この無駄って省けない無駄なのがパラドックスなのです。
無駄に見える広告を止めた途端、お客様との接点が消滅する。
企業はそんな恐怖感を持っています。
ビスケットの箱をもっともっと安くするには再生紙を使うとか、使い回しをするとか、そもそも箱を使わないで量り売りにするとか色々やれそうですが、それぞれに問題点も出てきます。
箱が必要な理由はビスケットの保護。
それなら印刷が無駄ということだから、まずは印刷をやめてみたら少し無駄が減る。
上等な紙をやめて必要最低限の“機能(守る)”が得られるものにする。
つまり、漂白も何もしていな無味乾燥な箱にマジックで
「ビスケット チョコクリーム」
とか書く・・・ コストを追求して、もったいないを追求していくと、すごくつまらないわけです。
別の言葉で言えば、 誰が買ってくれるの? ということ。
当然、箱の材質感を利用したデザインを考え出したり、一色で印刷できるシンプルデザインを考え出す企業も出てきますが、残念ながらパッケージのデザインが売れ行きを左右するということは否定できません。
だからといって、
消費者が派手派手しい物に反応しないように意識を変えていく
そんなことは解決法にはなりません。
もったいないからと無駄を省いていくと、街から色彩が消えていきます。
自然が作り出す色彩以外は、人間の無駄が作り出すのです。
すると、どこかの国みたいになんとなくネズミ色の世界になっていく。
“理想的に言えば”効率的な社会システムというのはありますが、現実的にはそんな世界で生きていくのはちょっと耐えられない。
何かと毛嫌いされている広告ですが、この広告が世の中を生き生きさせていることは誰も否定できません。
ビスケットの箱もそう。
僕の大学の美術の教授曰く。
アートの定義とはなんだと思う?
この問いは、哲学的で答えのない質問に聞こえますが、ハッキリとした定義が存在します。それは、
無駄なこと
なのだそうです。アートと呼ばれているものを思い起こしてみると、具体的に役に立つものは一つもないことが分かります。少しでも具体的な用途があるものは、その時点で既にアートではありません。
エコを突きつめていくと、無駄を省いていくことになる。
同時にこの世のアートな部分を削ることにもなっていきます。
無駄と知りつつ省けない無駄もあるのです。
厄介なことに、どれが無駄でどれが無駄でないのか、人それぞれなのです。
だから、エコロジカルな社会というのは実現が非常に難しいのです。
さあ、どうする?(笑)
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