僕は小さな頃から、
「命を大切に」
なんてことは教えられたことがありません。
何しろ、小犬を拾って帰れば
「捨ててこい」
と言われて、どんなに泣いて頼んでもダメなものはダメ。
(中学で犬を初めて買ってからは、どんどん増えた)
子犬を寒空に捨てて来れば、ひょっとすると他の人が拾うかもしれないが、そうでないことも多々あるわけです。
でも、大人は
「捨ててこい」
このどこに命の大切さなんてものに対する教訓があるか?
というと、実はあったようで、なかったようで・・・。
大人の意図とは別に、自分の想像がどんどん膨らむことが教訓でした。
犬を捨てた夜は、その犬がどうなったのか気になって仕方がない。
少し大きくなると、捨てに行った場所に戻って
「・・・もういない」
と、その行く末を心配して歩きまわって、姿を見つけて安心して帰ってくる。
でも、絶対安全な家庭を提供してあげることは出来ない後ろめたさがあるわけです。
「事故にあってないかな」
「おなかすいて死んでないかな?」
そういうことを心配する。
自然に「その犬が生きててほしい」とかんがえるようになります。
つまり、その犬の命が大切になる。
絶対自分の犬にならなくてもです。
小学5年生の時、下校途中で僕は蛇に遭遇しました。
交通安全の旗を持っていたので、その棒で蛇を引っ掛けて前に進めないようにして遊んでいました。そのうち蛇に慣れてきて、気持ちが高揚してきて、蛇を引っ掛けて勢い良く空へ
ポーン
と放り投げました。
すると、アスファルトに落ちた蛇は
パーン
という軽い音を立てたあと、ズズと少し動いて止まりました。
近くに見に行くと、目の中が真っ赤に充血して死んでいました。
その目を見た時に、僕は初めてとんでもないことをしてしまったことに気づきました。
「命を奪う」
ってことです。
せめて車に轢かれないよう柿畑の奥へ蛇の死体を移動して、一目散に家に帰りました。
今でも真っ赤な目が思い出されます。
命の大切さってのは皮肉なことに、
小さな命を奪うことで学んでいく。
そんな気がします。
だから、子供がアリを潰したり、昆虫の脚をちぎったり、トカゲを触りまくって殺してしまうという残虐性を経験させず、
「命は大切」
という言葉だけで命の意味を教えることに危険を感じます。
こういうことはキレイ事ではすまされません。
申し訳ない気持ちでいっぱいだけど、昆虫や小さな爬虫類・両生類の命を奪うことで、命の意味を知ることが出来ると僕は思います。
ただ、自分が奪った命を見て、
しまった・・・・
と思う感性。
これは、親が育てるものだと思います。
あとは、子供が勝手に考えます。
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