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買うだけの生活に文化はあるのか?

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今日は、仕事で京都へ行ってきました。
京都の町を見ても、もう日本中どこもかしこも “同じ印象” なんですね。

街ごとの違いや、特色がほとんど感じられません。
名古屋とも、岐阜とも変化無し。

僕ら日本人の生活を見ていると、文化ってなんだろうと思うことがあります。

普通の生活の中では、基本的に受動的な行動ばかり。

特に、買うという行動。
主体的に動いて、選択しているようにも見えますが、あくまでも他人の作ったものをウチに持って帰る行為であるわけです。

例えば、組み立て式家具を買って帰り、家で設置した。

これは、文化的かというと文化的ですが、

文化か?

というと、何となく違います。
同じ家具でも、材料を買ってきて自分で作るだとか、大工さんに自分の好みで作ってもらうなんてことがあれば、そこには文化を感じます。

一方で、組み立て式家具。
“文化的”ではあるけど、文化とは呼びにくい。

これが悪いと言っているわけではありませんが、その家具自体が日本という文化でもなければ、アメリカの文化でもなければ、中国の文化でもなく、ただ “整い” だけを提供してくれるものでしかありません。

ところが、この組み立て式家具を買ってきて、組み合わせて独自に用途を広げた、ということになると、これまた文化に格上げになるわけです。

僕にとって文化とは、

建設的な生き方、生活の仕方や、考え方、次の世代に伝えていきたい知恵や工夫
自分の環境を美しくしたり、飾り付けること

と考えています。

既製品を買ってきて並べるだけ、という生活は文化になりえない、と僕は思うのです。

韓国人の友人が、キムチの作り方が家々に伝わっているということを言っていました。
これはまぎれもなく文化です。

だけど、その一方で、味の伝承が途切れ、既製品を買ってくるようになった家もあるらしい。
ここに文化はありません。

日本で言えば、

お袋の味

です。この文化も、途絶えた家庭はありそうです。
ただし、自分は作ってもらえなかったけど、大人になったら作るようになった、という場合は、文化を再生した、または生んだと言えると思います。素直に、偉業だと思います。

僕の80歳代のおばあちゃんは、実家が建具屋だったこともあり、

「トイレの角に小物を置く棚が欲しいなぁ」

と言いながら、寸法を測って、材料を買ってきて作ってしまいます。
自分がトイレでの立ち座りが大変だと思えば、手すりを自分で取り付けてしまいます。

おばあちゃんの

“自分で作るという文化”

は、孫の僕だけが受け継いで、自分で家具を作ったり、既製品を自分好みに改造して使ったりということを続けています。息子にも手作りという文化は伝えていきたいので、今から仕込んでいます。

大量生産品の “整い” があれば、人は満足できてしまいます。
自分にたいしたセンスがなくても、人の言うとおりに並べれば、なんとなくセンス良い部屋に住まえる。

でも、そこには

伝えていくべき知恵 = 文化

は既に存在していないのです。

既に整った既製品に慣れてしまって、人がデザインした物をその通りに使う。
オモチャを並べて遊ぶのではなく、仮想世界(ゲーム)で遊ぶ。
できあいの総菜を並べて、家でご飯も炊かない家庭。
“高品質・安全”を謳って、インスタント食品を宅配する、ある巨大組織。

どれも、人の手を使わせなくなり、工夫を無くし、家庭から文化を消していきます。
そのかわり、“文化的” な生活を提供していくわけです。

もっと生活に手間をかけましょう。
面倒くさいし、時間がないからと、

文化

を明け渡してしまうほど馬鹿げたことはありません。

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