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言いたいことを言う自由

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言論の自由なんてことをここまで身近に感じた時代が今までにあったのかなと、ふと思いました。

ネットで無責任な暴言を吐こうが、意図的に人を傷つけようが、

それは言論の自由
表現の自由

なのだと。鼻をかむティッシュのように軽くて安い自由です。

この自由は日本という国が好きな人も嫌いな人も等分に認められています。ただし影響力の大きさは等分ではありませんが。

一方でネット上で何を言おうが何を書こうが

言論の自由

と言い張ることに多くの人が違和感を感じています。

その違和感がどこから来るのか、とても興味があります。

まず、この自由は長い間の闘いでようやく得るに至った自由なわけです。言い古された言葉で言えば、血と汗と涙の結晶というところでしょうか。

自由とはいえ、子供が画用紙に何も意図することなく

自由に

お絵かきをする“自由”と同じ自由なのかどうか。

僕の頭の中では、この自由はとても高級すぎて、普段からポンポン使うものではないものに感じています。

だけど持っている。

そう考えると、言論の自由というものに対して僕が持っているイメージが何となく分かります。

二つの別々の自由を持っている。

僕の言論の自由は、このブログ程度のものには行使していません。もちろん真剣に書いているし、自己表現の一つだと思っていますが、もし、

僕の書いたことを不愉快に思う人がいたら?

僕は、その感情を持たせてしまったことに謝罪する場合もあるし、僕の意図することをなんとか別の言葉で伝え直そうとするかもしれませんし、もしかすると記事を取り下げるかもしれません。

まちがっても、

イヤなら読むな、僕の自由だ

という態度は取りません。

ここで僕の言論の自由を主張しようとは思わないのです。あくまでもコミュニケーションであって、

そうか、そんな風に感じる人がいるのか

と、まず自分の言動を見直します。

どちらにしても僕の理屈なんて穴だらけですから、その穴を一つずつふさぎながら言論の自由を主張するなんて馬鹿げています。

それに、ネットに対して何らかの規則ができて発言の自由を制限されたとしても、僕は

交通ルール

程度にすんなり受け入れることでしょう。そのくらいの自由は、公道でクルマをかっ飛ばす自由(認められない)とおなじようなものですから、容易にあきらめがつきます。

ただし、

絶対的に譲れない状況と意見。
どうしても言わなければならないこと。

この時は譲りません。規制があろうがなかろうが、何が何でも表現するでしょうし、発言します。

言論の自由はそんな時に生きてくる自由です。
それ相応の覚悟と、何かを背負う責任が伴います。
何しろ、先人が“弾圧”という困難を越えて得た自由です。
重みが違います。

だから、僕のブログにしてもネットの匿名の書き込みにしても、

言論の自由

とはかけ離れた、もっと低いレベルの、もっと覚悟のない行動だと思います。
友人との会話を「言論の自由」を感じながら楽しむ人はいないわけです。

だから、ネット上には言論の自由なんてものはそうそう存在するモノではなく、やはり

世間の常識/良識

の上で発言するのが理想です。
とはいえ、世間の良識にかなったこと“だけ”を発言するという意味ではなく、

良識ある態度で発言する

ということです。良識のある態度で発言するのなら、異論だろうが正論だろうが、奇論だろうが全て尊重されるべきです。(これがそもそも言論の自由だと言う方もいるでしょうけどね)
そして、常に別の意見や反対意見がある前提を持ち、紳士的に相手の意見に耳を傾けることです。お互い敵対的では、もはや“論”ですらありません。

表現の自由だといって、街を裸で歩けば逮捕されます。
フリークライミングでビルを登れば逮捕されます。

言論の自由も同様です。

鼻をかむティッシュのように消費する自由も存在します。

ですが、言論の自由というのは、

美術館ですら常時展示しておくのをはばかるような貴重な絵画

のような、同じ紙でもティッシュと同等に語るべきではないものです。

言論の自由があまりに軽々しく語られることが、僕にとっての違和感のようです。

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