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名画に隠された秘密

昨日の新聞に、

複写した名画を無料で貸し出して、美術展を開いている。(合法的に行われている話で、喜ばれているという趣旨です)

という記事がありました。

最初にあたまに浮かんだのは、

「なにバカなことを」

というもの。でも、じっくり考えてみて、隠れた価値があることに気がつきました。

絵画は、書かれた絵の内容だけに価値があるわけではありません。
また、

上手い
下手

とも全く別のものです。

書かれた時代とテーマ、絵描きの筆遣いなどの背景があって、初めて価値を持ち始めるのです。

例えば、美術と言えば宗教画です。
僕は宗教全く分からないのですが、美術の話で宗教は避けられません。

イエス・キリストを描いた絵はいくらでもあります。その中で歴史的に貴重だと言われている絵画を見ると、

「他のと比べてどうしてこれがそんなに重要なの?」

という疑問を隠せないものもあります。

例えば、マザッチオの「the Holy Trinity」という、磔にされたイエス・キリストが建物の中に立っているとても写実的な絵があります。この絵はとても貴重らしいのです。

masaccio.jpg

なぜか?

この絵は、初めて意図的に遠近法を使ったものだと言われています。CGに慣れてしまった僕らが見ると、

「ふ?ん」

という程度で何も感動はありません。でも、こんな視点を初めて見た人達は驚いたに違いありません。

もう一つこの絵には面白い説があって、絵をよく見てみると、背後の赤黒の人物とイエス・キリストの立ち位置とあたまの位置が現実世界では絶対にあり得ない状態なのだそうです。写真では分かりづらいですが。

足は、建物の奥の祭壇の上に立っている。
あたまは、その祭壇より10mくらい前にある。

分かりにくいですね。

横断歩道を思い浮かべてみてください。

足は、渡る前の所。
あたまは渡った後の所。

その状態を、渡った後の側から真正面に見ると、通常であればアタマがより大きく、足はより小さくなるはずです。

しかし、絵の方はそうなっていない。
背後の赤黒の服の人(神?)はまっすぐに立っているだけ。
空間だけが歪んでいるのです。

なぜ、写実的な絵がかける画家が、こんないい加減な仕事をしているのか?

実は、これはいい加減な仕事ではないのです。

歪んだ空間に矛盾なく立っていられる存在を絵画にしようという、この芸術家の表現なのだと言われています。

歪んだ空間に矛盾なく立っていられるのは誰?

“神”

だということでしょう。

つまり、宗教画にたまにみられる「おや?」という歪みは、画家が意図的に“神”という存在を2次元に表現しようとした結果かもしれないというのです。そのために透視図法を積極的に利用したという説です。(「そんなことはない、普通に立ってるように見える」という人ももちろんいます)

名画を見るとき重要なのは、

絵画の歴史のいつから、“その表現”が使われ始めたのか?

という面もあるのです。

それが、この「建物の中の歪んだ空間にいる“神”」の絵の価値です。

もっと例があります。

美術の教科書には、「官房長ロランの聖母:”the madonna of chancellor rolin”」という聖母マリアと時の権力者が向かい合って座っている絵が出てきます。

rolin.jpg

これはなぜ重要なのか?

まず一つは、遠近法を効果として取り入れた点。
通常、遠近法は(この場合一点透視法)一つの世界に一つの“消失点”を持ちます。でも、この絵は室内と屋外の雄大な風景を一つの消失点を保持しつつ、別々の視点で描いているのだとか。

分かりにくいです。

つまり、風景画として描いた絵と、室内を描いた絵の消失点を後で無理矢理重ねたようなものです。実際はそんないい加減なものではないですけど。

もう一点は、普通に考えたら聖母マリアと一般人が時間を超えて向かい合うなんてことはない点。ここには確実に誰かの意図が隠れています。

この頃の絵には「パトロン」といって、注文した人の名前が残っています。実は権力者が、自分の力を誇示するために画家を雇って、自分の望む絵を描かせたという背景があるのです。

肖像画を残すこと自体が贅沢だったのに、そこに

「聖母マリアも描け」

とばかり、お金を積んででも権力を誇示したがるお金持ち。とても宗教的とは言えない、俗物的な絵だったわけです。どこかの国の独裁者が自分の肖像画をそこら中に描かせるのと感覚は似ています。

昔からこういう構図があるのが、馬鹿馬鹿しくてとても面白いです。

最後に、ラスコー洞窟の壁画にも面白い話があります。

この絵は、岩を砕いて粉にした物をストローのようなもので吹き付けて描かれているとか。

実は、この絵は古いことだけが貴重なのではありません。

絵をよく見ていると、所々に手形があるそうです。

古代の人間が、自分の手をそっと壁につき、その上から

「ふっ」

とその粉を吹き付ける。なんだかとても儀式めいた雰囲気があります。

何のために?

単なる模様のつもりだったのでしょうか?

これは、

「I am. (私です)」

という表現だと解釈されています。

つまり、“署名”ではないかと言われているのです。

名前があったかなかったかも分からない時代。なんとかして、自分が描いたことを残しておきたかったのかもしれません。

そういう“人”の存在を感じながら見るのが絵画を鑑賞する楽しみなのです。

冒頭の複写を見せるという企画。

一瞬、

「バカなことやってるなぁ」

と思いましたが、よくよく考えてみたら、

とにかく絵画に触れる機会をつくること

そんな意図が隠れているのかもしれないと思いました。

絵を上手い下手で見ていると大切なことが見えません。

「なぜこの絵なんだろう?」
「何が特別なんだろう?」

という疑問を持ってみると楽しみ方が変わってきます。

ちなみに、文学の名作と言われているものにも同様の価値が隠れています。名作と現代の小説と比較して、表現が稚拙だと言ったりする人がまずいないのは、創始と模倣の違いが分かる評論家がほとんどだからでしょう。

ちなみに僕は名作選とか、ほとんど読んだことがありません。(^_^;)

だって、やっぱり眠いんだ。
現代のものに慣れ過ぎちゃって(笑)