Home » 速読で失うこと

速読で失うこと

 | 

20代後半の頃、自分で訓練して速読っぽいものを身につけました。

切っ掛けは、何かの本に

「芥川龍之介は、一日に5冊の本を読み、5冊の雑誌を読んだ」

本当かウソかしらないけど、そんなようなのが書かれていたのを見て、単純な僕は、

「よし。一日に5冊本が読めるようになろう」

と、半年くらいかけて一日に小説を5冊読めるようになりました。
幸い、ロサンゼルスでは日本語の書店や古本屋さんに困ることはなく、結構色々な本を買っては売って、売っては買ってを繰り返しました。

でも、この読書、残念ながら僕にとってはなんの意味もありませんでした。

活字って、ただ追うだけでは全く意味がないことに気付きました。
例えば、じっくり読んでいれば、文章の書き方について、

「これは、なぜこの書き方を選んだのかな?文章的にはこんな方法もできそうだけど」

作家があえて選んだ方法に、深い意味を感じるときがあるのです。
作家って凄いなぁ、と感動する余裕があります。
でも、速読だとそういうディテールは全く無視。とにかく、

ストーリーが把握できればいい

ということが目的になってしまうのです。日本人の観光旅行に似て、

「ここは行ったことがある場所」 = 「この本は読んだことがある」

という確認作業に近いものになってしまいます。そこで何を感じたのか、なんてことに重要性はありません。

「ドストエフスキーの本を読んだ」

のは、味わったのか、字面を追ったのかによって意味が大きく変わります。ストーリーを覚えているかどうかではなく、それを読んで自分が何を感じるか、そちらの方が本当は大切なのです。

速読をすれば、より多くのことを  知る  ことができます。

でも、クイズ番組で優勝したいのでもなければ、知っていることになんの意義もありません。

ずいぶん無駄に本を読んでしまったなぁ、と思うわけです。
今は、読めて月に20冊?30冊。

納得いかなければ、同じ本を何度か読み返したりするので、一冊ごとの理解度は高まっています。
本を読むスピードは、どんどん遅くなっているように感じます。

今の世の中では、なんでも速くこなすことを要求されます。
でも、「速く終わらせること」の目的が、「次の仕事を早く終わらせること」というだけに見えます。
単なる無限連鎖。
パソコンでもなんでも、速いことにはあまり意味がないのかもしれません。

こんな記事もあります。

読みにくい絵本 on May 5th, 2009

古本 on January 14th, 2010

落書き帳のしつけ on December 9th, 2009

ようやく始まった読書 on February 23rd, 2010

ついに“宝島”が読める! on December 8th, 2009