タイミングが合って、自転車で息子を幼稚園に迎えに行ったときのことです。
行く途中、一匹のセミが地面に落ちて、自転車か何かにつぶされたか、または人間につぶされたか、とにかく車につぶされたわけではない微妙な具合で死んでいました。
幼稚園でそっぴくんを乗せ(もちろんヘルメット着用)、ゆっくり自転車をこぎながら、
「ぱぱ、さっきつぶれたセミ見たぞ」
というと、ボウズは、「見たい見たい見たい!」 といいました。
あんまりうるさいので、セミが死んでいるところの横に自転車を止めて、指をさすと、ぽつりと一言。
「かわいそう。 うめてあげたいな」
むむむ、つぶれて内臓と脳が飛びでていて、親の視点からすれば、「そんなキタナイ物に触るな!」と言いたいところだけど、なんとなくそれは正しくないような気がしました。
ただ、人の家や整えられた神社に穴を掘るのも正しくないので、
「あの木の下の草があるところに置いてあげたら?」
という僕の意見に賛成して、つぶれてしまったセミをつまみ上げて草の中へ。
満足したようで、
「これであのセミは天国へいったかなぁ」
と言っていました。そんな息子も、蟻やゲジゲジなどには冷たいのだから、命を大切にする子という美談からはほど遠いものの、優しい子に育ってくれていると思います。今のところ。(笑)
僕が躾けたのか?
なんだか違います。
僕の頭の中にある答えは、
ボウズが勝手にそうなった
というだけ。僕が教えているのは挨拶や、マナーだけで、命のウンタラということはわざわざ教えていません。
今は、学校で人の命がどうのと教えるみたいだけど、命の大切さってことさら意識させるのではなく、挨拶やマナーのような他人と共生する上での行動を教える延長線に勝手にオマケでついてくるという教え方にしないとマズイのではないかと思います。
命を大切にすること!
とあまり声高に言ってしまうと、“反論”したがるバカがいるので、一番大切なことは教えるのではなくて、間接的な感じ方をさせた方がいいのかも。
あまりに息子が勝手に育っていくので、親の役割について少し認識が変わってきました。
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