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美学のない“男ボウズ”論は不要

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男の子の親から聞こえてくる言葉に、

「男ボウズはこれくらいでなくっちゃ!」

があります。やんちゃでわんぱくな子を持つ親がいうのだけど、本来は、

木登りして落ちて骨を折っちゃった
年上の子どもとケンカして、叩きのめされた
塀の上を歩いていて、家主に叱られた

そういう無鉄砲なところを、

しゃ?ないな、コイツは。 (^_^;)

と微笑ましく表現した言葉だったはず。根本には、その子が元気で、快活で、最も重要なのが “信頼できる子” であることがあって、親としては心配だけど、それを止めてしまっては強い子に育たないという、

親自身が過保護にならないための戒め

として役立っていた言葉でした。

ところがこの頃は、単なるワガママで協調性のない子どもが自分の思い通りにならないことに腹を立てて相手を殴ったとか、大人の注意を全く聞かず、バカにしたような態度を取ることまで全て、

男ボウズはこれくらいでなくっちゃ!

という親が出てきました。そこには、“力” への崇拝が隠されている気配もあります。

男ボウズがどうあるべきか、それは

その子がそのまま大きくなるまで持っててほしい性質を殺さないこと

であるはず。
なんでもかんでも慎重すぎて度胸のない男にならないこと、相手が強くても立ち向かっていく勇気、卑屈さのない強い男になっていってほしいという願いが元にあって、今の行動を見守る中で出てくるのが、

男ボウズはこれくらい

という言葉であるべきです。そして、ここからが大切だと思うのです。
男ボウズとしてあるべき姿、理想的な行動だったとしても、親は叱らなければならないこともあるということです。

男ボウズだからこれくらいはいいでしょうと放っておくのは、単なる放任です。

塀の上を歩いて家主に怒られたのであれば、人に迷惑をかけたわけです。
木登りして落ちて怪我をしたのなら、自分の体を大切にする知恵が足りなかったのです。
年上の子とケンカになった理由が、単なるワガママだったのかもしれません。

一つの行動の中にも、男としては褒められるべき事と、公共の観点からすれば許されないことがあるということを教えてあげるのも大人の仕事です。矛盾があって当然なのです。

自分の息子にどう成長してもらいたいのか、そういう美学があって初めて成立するのが、

男ボウズだからこれくらいでなくっちゃ!

という言葉です。

男ボウズに必要なのは、思いやりと勇気と、正しい心です。
決して “力” ではありません。

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