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写真の何に感動するのか

先日「レミーのおいしいレストラン」を見ていて、ふとこんなことを考えました。

「映画や写真、絵を見ていると、その作者達との一体感を得られます。」

と言われて、

「なんのこっちゃ」

と思ったことがありました。

なんでもかんでも取って付けたような言葉で飾って、しゃらくさい。

ところが、自分が作品を作るようになってようやくその言葉の意味が分かるようになりました。

カメラというのは、どんな広角レンズ(広い範囲が写るようになる特別なレンズ)を使おうが、何台カメラを使おうが、

それぞれのカメラの視点はこの世に一点しかない

ということです。映像はレンズを通してたった一つの点で像を結びます。
カメラをどの高さに設置しようか、どのアングルで撮ろうか、どのくらい広い(狭い)視野で撮影しようか、上下の動き(ティルト)は入れるのか、左右(パン)するのか、などなど。

数え切れない選択を経て、たった一つのパターンが記録されます。
テイク2は、これもまた別の表現です。

人間の道具は、一度に二つの視点を一枚の絵や映像にすることはできません。
仮に2点以上の視点を一つにまとめることができるテクノロジーがあったとしても、受像器としての人間の器官(眼)が二つの視点を別々に感じることができない以上、記録媒体の進歩ってあまり役に立たないのかも。

絵画も同じことです。
いくらピカソの絵が横や前を一つの視点から書いたからと言って、やはり視点は一つなのです。
人間の目はカメラのレンズと同じく、二つの焦点を同時に持つことはできません(両目の話はしてません)。

つまり、カメラを回した人、絵を描いた人、それぞれたった一人の人が見た映像を、世界中の人が共有するわけです。たった一つしかないものを、フィルムやビデオテープやディスクや紙に記録することによって、表現者の視点が共有されます。

記録するメディアがなければ、人の脳の中に入り込んで同じ信号受け取るしか共有することは不可能なのに、表現によって簡単に共有することができるのです。

それだけで、他人が撮ったもの、描いたものを楽しむ価値がある気がします。

世の中には、その視点があまり美しくないと、

構図が悪い

と批評する人も大勢います。でも、構図なんかより、見ず知らずの誰かの視点を共有する、そんな不思議な体験の方が価値があるのです。

この頃は、ユーチューブなんかでくだらないビデオが山ほど、無限に見られます。
でも、“くだらない”ビデオでさえ、この世に一つしか存在しない視点を確実に誰かと共有しているのです。

ただし、好き嫌いはありますけど。(笑)

今は、みんなが表現できる道具が簡単に手に入ります。
確かに一つ一つの表現のレベルが下がって(希釈されて)いるという事実もあります。

とはいえ、平和の基本は共感と共有でしょう。
ひょっとすると、全ての人が表現者になって、

批評家

がいなくなれば、インターネットが平和をもたらす???
んなはずないか。(笑)

なぜなら、批評も表現の一つだとすると、

分かり合えない

という要素も“表現”の中に入ってくるんだから。世知辛い。

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