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習わせるダンスと自己表現

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子供にヒップホップなどのダンスを習わせる方、とても多いですね。自己表現がとても苦手な日本人なので、ダンスという自己表現を覚えるのも悪くないかもしれません。

でも、すこし気になる。

アメリカにいた頃、広場で子供達がダンスをやっているのを見ました。

昔の映画によくあった、大きなブームボックス(=ラジカセ:死語です(笑))を担いで広場に行き、ダンスの練習をしているところへ友人が集まってきて踊っている、あれです。

日本にはない風景だと思いますか?

そんなことはありません。
実はこれ、昔日本にも普通にあった、

大きい子が小さい子を教える風景

と全く同じことです。

人間が生きているところには、不思議なほど似通った習慣が自然発生的に生まれるのだと感心しながら見ていました。

僕らが子供の頃はゴムボールでやる手打ちの野球や、木登り、探検など大きい子が小さい子に教える文化がありました。

年下の子が来ると、偉そうに振る舞いながらもうれしかった記憶があります。人に教える快感というか、尊敬されている快感のようなものがありました。

日本では遊び
海外(の一部)ではダンス

が、コミュニケーションツールであり、社会を学ぶ媒体になっていたということです。習い事でもスポーツでもなく、それらの活動が社会の縮図だったのです。

僕が気になることは、“ダンスを習わせる”ことが先ほどの社会の縮図とは趣が違うということです。

習わせる、発表会がある
そこにはスポーツと競技のイメージが重なります。

勝つために、独創性が犠牲になりはしないかと心配してしまいます。審査員の好みを追いかけたり、傾向を分析するのは指導者である大人の仕事になるのではないでしょうか。勝ち負けの誘惑に大人は勝てません。ましてや、競技の当事者ではないので、自ずと期待ばかりが高まります。

すると、暗に子供は大人の計画通りに動いていくことになってしまうのではないか。

仮にそうなったとしたら、もう自己表現とは離れたものになっていきます。

たとえは非常に悪いですが、極端な例は

北朝鮮の子供達

です。悲しいことに彼らは自己表現をしていません。

“型”があって、決められたとおり忠実に間違いなく“実行”することが目的です。次に同じ演題を行うときも、決められたとおりに実行する。何度でも同じ品質の、同じ演技が出来る。言ってみれば、

踊りの大量生産

を行っているのです。

なぜこんな事が起きてしまうのか、というと原因は

大人の介在

です。大人が“これが理想型”というものを提示して、その理想型に近づくように指導していくこと。これでは自己表現が出来る日はいつまでたっても来ません。

ただ、子供はカッコよく踊るようになるでしょうけど、なんだか可愛そうな気がします。

(誤解のないように付け加えると、ダンスを否定したり、スポーツで自己表現をすることが出来ないと言っているわけではありません。何にしても一生懸命にやっていることは、自己表現とも言えますから。念のため)

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