先日、妻が言いました。
「今日、幼稚園の前を通ったら消防車が来てたよ」
といっても別に物々しいことではなく、園児達向けに“防火教室”があったのです。前日からそっぴくんは、
「あした、ようちえんにしょうぼうしゃがくる!」
夕食のときにも、寝る前にも言っていました。それを知っていたので、息子が
どんな顔をして消防車を見ていたのかな?
と考えていたら、なぜか目頭が熱くなってしまいました。
なぜ??(笑)
消防車なんてのは僕ら大人にとってはなんてことないものなわけです。
でも、子供達にとってはトラックを赤く塗って白いホースが横にぶら下がっているだけの消防団のトラックでも
消防車だ!
といって目を輝かせて見つめています。
そんな時は、全神経が目に集まっているという感じで、思わず抱きしめたくなります。
箸が上手に持てたと褒められたとき
工作が上手にできた、絵が上手く描けて褒められたとき
幼稚園で先生に褒められたことを僕らに話すとき
プールで底まで潜れたとき
自転車で転ばずに走れるようになったとき
それぞれのシーンで見せる顔に、頭のどこかが勝手に反応します。
覚えた感覚でもないし、そうしようとおもったわけでもない。
本能的なものなのでしょうね。
これが親になるということなのだと思います。
この頃、子殺しとか親殺しなんてニュースがあります。
でも、日本に無数にいる“親”のなかの、たかだか年に数十人が子供を殺している。確かに多いですが、悲観するほど多くないのかもしれません。
その他の親たちは、子供の些細な仕草に毎日感動して、誰にも言わないけど、
あれ?なんで泣けるんだ?
と思っているはずです。
そういう人として本能的に備わっている愛情があるからこそ、
叱りすぎたなぁ、とか、最近感情的になりすぎたな
という失敗も反省も乗り越えていけるし、子供は親への信頼を保ち続けてくれるのでしょう。
でも、この感情は本能とはいってもとても消え入りやすいように感じます。
親が我欲に走りすぎてしまったとき、子供との距離が生まれます。
その時、人間関係に乱気流が生まれます。
乱気流を上手く操縦して抜け出すことができればいいのですが、抜け出す前に投げ出してしまうほど軌道が乱れていたとしたら、“目頭が熱くなる”あの感情は戻ってこないような気がします。
そうなると、昔を思い出して感傷に浸ることになりそうです。
もちろんこれは最悪のケースで、ここまで酷くなることは少ないでしょう。(笑)
年齢を重ねると涙もろくなるといいますけど、できれば年老いたとき“感傷”ではなくて、“感動”で涙もろい爺さんになっていたいものです。
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