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教育の場の境界線

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先日朝、ある保育園の前を通りがかりました。
登園時間です。

保育園の前には車がずら?っと並んでいます。
その多くはアイドリング放置、交差点にはみ出て放置、道の左右に駐車され、狂乱状態。
そこを子ども達を連れた親が歩きます。

僕は自転車で走っていましたが、スポーツ車でタイヤが細く、サドルは高く、とても不安定です。
もう少しなんとかならんものかな、と思いながら走っていくと、

保育園の前で、先生達が笑顔で出迎えをしています。

とっても違和感を感じました。
保育園の敷地と、公道の境界で、

教育を受ける子ども達と、無秩序状態の親

が同時に存在しているのです。

そこへ連れていく道程で、親が率先してルールを破る。

僕は石頭かもしれませんが、親はそのまま出勤したり、用事をこなしたりという予定があってのことだってことは理解しています。自転車で送って、家に帰って、再度出かけるというのはとても不合理です。

でも、モラルって合理性を求めると崩壊することが多いです。

信号の見切り発車。
あっちの信号が赤になったから、こっちは青になる。その法則は分かっているし、見たところ車が来ている気配もない。

行っちゃえ!

イベント会場で、飲み終わった飲み物の入れ物を捨てるゴミ箱がない。テロ警戒でどこもゴミ箱ありませんから。ふと見ると、指定されているわけではないのに、ある場所がゴミ置き場になっていて、一見行儀よくゴミがまとめてあるところがある。

捨てちゃえ!

ある会社が、肉の品質を偽ってコスト削減に成功している。この肉質は、等級以上の実質価値がある。

ウチもやっちゃえ!

どれも合理的です。あくまでも、その場に居合わせた当事者達にとってはの話ではあるけど。
保育園前の無秩序を初めて見たときは、どのお母さん達も、

「困ったな、どこに車停めれば良いんだろう?」

と途惑ったはずです。でも、習慣的に、

「あ、あのね、この辺に停めておけば良いんだよ。警察もずっと見て見ぬふりだから」

というテクニックを教える人がでてきて、いつの間にか慣れてしまうのです。
そして、更に問題は、僕ら世代は人からとがめられることを嫌うため、改善する見込みがないということです。

園や先生が親を指導しようとすると、食ってかかったり、
挙げ句の果てには謝罪をさせたりするような親もいる。

園がお客様(?親のこと)との関係を円満に保つ、つまり事なかれ主義でいるために見ないふりをする。
こんな行動を見て育つ子ども達はどうなるんでしょう。

そういう延長線で考えていくと、大分の教師採用試験なんてのも、実は当事者になっていたら容易に納得できるような合理性があったに違いないのです。

僕が自慢することではないですけど、息子の通う幼稚園の園長は勇気のある女性で、僕らに対して指導をバンバン入れてくれます。イベントでの親の行動も厳しく後日の配布物でたしなめられたり、園全体の懇談会では子どもの生活の報告と同時に、僕らの家の内外での行動についても言及されます。

親として、行動に境界線を設けたらいけないのだということです。

先生の人間性と日頃の行動が、それらの聞きにくい話を素直に聞く気にさせてくれます。
相手次第で聞く聞かないを分ける聴き手もあかんね。 (^_^;)

僕も完璧なモラルを持っているわけではなくて、

「あんなことしなければよかった。恥ずかしいことしたな」

と、チクリと胸を刺すようなことを毎日重ねています。
とりあえず、こういう所に書いて、少しでも自分の戒めになればいいと思うわけです。 (^_^;)

なんだ、自分の反省か?

と言われれば、そういうことでもあります。(笑)

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