僕は
「教訓コレクター」
になることが嫌いです。
明けても暮れても自己啓発の本を読んで、良い言葉を書き留めるよりもっとやれることがあると思うから。
でも、自分が信じてやってきたことが、
ぽんっ!
という感じで短いフレーズにまとめられているのを見つけると、自分の意識とは別のところから涙が出てきそうになります。気づいた時には、その涙をこらえようとして、なんか鼻の穴が
ふんっ!
って広がっていることがある。泣けばいいのに、純粋な気持ちになってる自分が恥ずかしい、照れくさい。この変な意地の理由がわかりませんが。
“If there must be trouble, let it be in my day, so that my child may have peace.”
– Thomas Paine
直訳ではなく、僕が無意識に感動した時の解釈は、
「もし問題があったなら、それは自分で受け止めよう。
そうすれば、僕の子供は平穏でいられる」
例えば、子供への虐待は、親から子へ、子からその子へと続いていくと言われているけど、これは幸せな家庭に育った人には分からない心理があると思う。
幸せに育った人は、幸せそうにしている人を見ると
自分もホカホカした気分になる。
一方、不幸せに育った人は、幸せそうにしている人を見ると、
「くそっ!幸せそうにしやがって」
と思う。自分がその時不幸か幸福か、そんなことは関係なく他人の幸せに反応する。
その対象が我が子であっても、ニコニコ笑顔でいるところを見ると、その笑顔でいられる理由が親の存在(自分)であるのにもかかわらず、
“憎しみ” を感じる
信じられないかもしれないけど、そう感じることを止められない。
だから、子供が幸せそうにすればするほど、あたかも幸せそうにしたことが罪かのように厳しく当たる、ということがあります。
これは、親から受け継いだ不必要で理不尽な感覚で
当人にとっても、その子にとっても不幸なことです。
でも、この呪われたつながりのどこかで勇気ある人が、
自分のところでこの不幸を止める!
と決意して、暴力の連鎖を我が子に受け継がせない事ができたら、その子は平穏に生きられるし、その子供も平穏でいられます。
自分ばかりが不幸な人生を生きてきた。
それは本当に不幸なことだし、親を恨むことも許されると思います。
ただ、その恨みは自分の子に伝える必要はないです。
僕はそうして、自分が最後になろうと決めました。
僕が世界で一番不幸であったとは思わないし、他の人が聞いたら
そんな程度のことで大げさな
といわれるようなことで怒ってるのかもしれません。
でも、怒りの大きさはそれぞれで感じ方は変えられないんです。
人の不幸の度合いをはかることは不可能だから、それぞれがそれぞれに悩んでいくんです。
そこで、またこの言葉(やけに教訓の日です(笑))
“Be kind, for everyone you meet is fighting a great battle”
「優しくなろう。
あなたの出会う全ての人、それぞれがそれぞれの大きな戦いを戦っているのだから」
そういうことです。
自分だけが不幸じゃない。
みんながそれぞれの物差しで、
それぞれの大きな問題と戦っている
だから、 その問題は自分のところで止めなければならないんです。
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