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世間体と他人の目

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おかしなことにこのごろは世間体を気にしなくなったのに、他人の目を随分気にする社会になりました。

理想を言えば、どちらもバランスよく持っていることです。

世間体というのは、

世間の常識にかなっていない場合に感じる恥

のようなもので、社会の一員として持っていなければならないブレーキのようなものです。全ての人種がそれぞれの文化にあった恥の意識を持っています。何も恥の文化である日本人だけではありません。

一方で、他人の目というのは、

自意識とか自己顕示

につながるほうで、かんたんに言えば“ええかっこしい”みたいなものです。これが完全になくなってしまうのもマズいですけど。

他人が自分をどう見るかは非常に気にするくせに、世間体は気にしない、このバランスの悪さはタイミングが悪いとある感情を生み出します。

怒り

です。

例えば、電車の中で騒ぐ人と、それを叱る人。叱った人を引きずり出し、暴行して殺すという事件がありました。

電車の中で騒ぐ行為は、世間体は無視していますが、他人の目は気にしています。

ただし、他人の目も二つに分かれます。

一次的他人 = 自分と一緒にいる人 = 仲間
二次的他人 = 見ず知らずの人 = 他人

行動の最初は、他人に対してだれが一番大胆かを仲間に誇示したいところから始まります。だから行動はいつのまにか他人の存在を完全に忘れてしまうところまでエスカレートします。(完全に他人の存在を感じず“楽しいから”という救いがたい場合もあります)

この人達には“絶対注意されない”という大前提があります。というより、仲間との競争の中でいつの間にか、叱る人(他人)は存在しなくなっていくのです。

そこへ他人が割って入り注意するという、予想外の行動が出てくると、急に周りにいる全ての他人の目が現実化してくる。他人が、

「叱られている自分たちを見て、あざ笑っているのではないか?」

ここで、自分の行為を恥じればいいのですが、そんな高度な思考はもとより出来ませんから、怒りが先にくる。それに、ここで素直に行動をやめれば、仲間に度胸がないと思われてしまう。結局、

「恥かかせたから、こいつに“わびをいれされよう”」
「ここでやめたら仲間にバカにされる」

ということになる。でも、自分たちが悪いことはどこかで知っているから、

「謝れ」

と言って謝るわけがない。でも、謝罪はさせたいからいきなり暴力で強要するわけです。暴力というのは、相手が卑屈になると加速するため、途中で謝ってもなかなか止まるものではありません。気付いたらぐったりとして手遅れになっていたということでしょう。

親や社会がしっかりと叱ってしつけなかったり、放任(放置)されてきた場合、世間体の意識はどんどん薄れていきます。他人も自分の優位性を確認するためだけの存在になります。

オレの方が偉い とか。

その上、努力の大切さも教えられず、小さな頃から利己的な親に利己的に育てられたら、子供の人間としての地盤はどこに据えればいいのか。

悪くなった

のであれば、更生の余地があります。でも、

ずっとこうだった

のだとしたら、もう戻るところはありません。そして、常識や恥のこころや世間体など、最近不当に毛嫌いされている感覚は、言語と同じで小さな頃にしかその基礎を作ることはできません。

常識のない子供というのは、

言語を持たない、オオカミに育てられた子供

とおなじような存在です。

人間と動物の違いは言葉を話すこと

だけじゃないのかもしれません。