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何を教える、ではないのかも

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先日、息子と古いスターウォーズ・トリロジーを一日中見ていました。

3話目の中に、イウォークという小熊のような部族が出てきて、主人公達の反乱軍を助けるという場面が出てきます。

帝国軍との激しい戦いの中、一人のイウォークが爆風で死んでしまうシーンが出てきて、そのシーンを見たそっぴくんはジッと画面を見つめたまま泣いていました。

最近は命の大切さというものを

教える、教える

といいますが、こんなこと教える必要ってあるのかと疑問になります。

僕は息子に対して命の大切さを説明したことはないのに、子供は勝手にその悲しさを感じ取ることができるんです。

自分がやっていることと言えば、飼い犬が死んで子供の前で大泣きしたことや、金魚が死にそうになっていたときに塩水に入れたりしたことくらい。

今思えば、そういう“行動”を子供は見ていたのであって、

「命は大切なんだよ」

という言葉なんてそれほど意味を持たないのです。

とはいえ、うちのボウズだって放っておけばアリを潰しまくって遊んでいたり、虫の幼虫を水攻めにしたりと残酷な遊びをしていてドキッとすることもあります。

でも、子供の視点からは

「大人は木についた虫を殺虫剤で殺すし、蚊は手で叩きつぶすし、何で違うの?」

という矛盾を感じているはずで、その部分を無理矢理の理屈で納得させてもその場だけになってしまいます。かわいそうだぞ、くらいは言いますけどね。

そもそも、命の大切さを教えるという発想が、

「スピード違反を看板で減らす」

というとてもお役所的な発想に近いように感じます。

結局いつもここに戻ってしまうのですが、子供のものの感じ方は親の行動に全てかかってきています。

命の大切さを理解できない子は、親が残酷な考え方の持ち主なのかもしれないです。

これは、生き物を殺すとかそういった直接的な行動を示すのではなく、他人に対しての思いやりがないとか、うかつに

「あんな人いなくなっちゃえばいいのに」

という“願望”を口外してしまうようなことです。子供が、他人を排除すれば自分の位置が安定するという選択肢があるかのように勘違いしてしまっても不思議ではありません。

ただし、乱暴な言葉が飛び交う家庭環境であっても、子供ながらに

「なんか変だな」

と思うことが出来れば、思いやりのある人になります。そういう時に、家庭外の大人の助けというものが必要になってくるのかもしれません。

子供は社会が育てるってのは、政治家の詭弁だと思っていましたが、そうでもないのかと最近感じます。

命の大切さを“教えられた子”の方が実は危険なのかもしれません。

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