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死の希薄さ

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我が家の防災の備えを見直していて、重要なことに気づきました。
自分自身の無責任さに怒りの感情を持つほど、

災害で死ぬかもしれない

という感覚が希薄だったことです。
地震が揺する。
机の下に入る。

これは今まで学校なんかでやってきた訓練です。
でも、被災地のテレビ局内の映像を見てても、誰も机の下に入っていない。

おそらく僕も入らない。

入るとしたら、気恥ずかしそうに薄笑いを浮かべて、無様な自分への言い訳をしながらの行動になる。これは、間違いなくそうしてしまう自分が見えます。

僕が被災地にいたら、机の下にすぐに入れたのか?
津波が来るとテレビで言い始めたとたんに、一目散に高台を目指せたのか?

全然自信がないのです。

いつまでも家に残って、何を持ち出そうかと悩んでいる自分しか見えない。
それも、誤報や、“念のため警報しておこう”ってレベルであることを前提として。
いままで大きな地震が来ても他人ごと、津波なんて警報ばっかりでオオカミ少年だと思っていました。この地域ではずいぶん前から、

東海・東南海地震が来る

と言われているのに、地震の備えをみてみたら

もうすぐ3年生になる息子用だったおむつが入っていた
食品は3年前に賞味期限が切れていた
カイロも同様に3年前に期限切れ

その他も、とても真剣に考えていたとは思えないような備えでした。そこには、

僕は大丈夫

という根拠のない自信が見られます。
別の言葉で言えば、

死という感覚の希薄さ

です。

自分は死なない
家もなくならない
でも、とりあえず避難の準備
それから、数日の快適装備

キャンプと勘違いしている自分の姿がありありと見受けられました。
でも、本当に命を守りたいのなら必要なのは、心の準備かもしれません。

地震予知の知らせと同時に、他人の目を気にせず行動に移せるか?
自分の所有物を放棄(車や家など)して、一目散に逃げることができるか?

もっともっと別の言葉で言えば、死というものの感覚の希薄さと同時に、

自分には、生きるんだ! という強い気持ちも欠けている。

なんとなく生きてきて、確かに一生懸命に何かをやってきたけど、生きるという事をあまりに当然に考えていました。

僕にとって今回の地震が今までのどの地震と比べてもショックが大きいのは、自分の甘さと弱さを見ることになったからかもしれません。

だから世の中に漂う、

被災地の人と、それ以外の私たち

という感覚に怒りを感じるのかも。
それは、他人に対して向けられていると同時に、それほど変わらない考えでいた自分自身への怒りなのかもしれないです。

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